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三輪


 能本作者註文、二百十番謡目録ともに世阿弥の作とし

ている。

 親元日記には寛正六年(1465年)三月九日に演能のこ

と、言経卿記の文禄四年(1595年)三月二十六日の条に

は本曲の註釈のことが出ている。


 三輪山にまつわる神婚説話は、古くは古事記「崇神天

皇」の条にも次のように出ている。

「此の意富多々泥古(おほたたぬこ)と謂ふ人を神の子

と知れる所以は、上に伝へる活玉依毘売(いくたまより

びめ)、其の容姿端正しかりき。

 是に壮夫(おとこ)有りて、其の形姿威儀(すがたよ

そほひ)時に比(たぐひ)無し。

 夜半の時、たちまちに到来(きた)る。

 故、相感(め)でて、共婚(まぐは)ひして供に住め

る間に、未だ幾時も経ぬに、其の美人妊身(はら)みぬ。

 爾(ここ)に父母、其の妊身みし事を怪しみて、其の

女に問ひて曰はく、「汝は自ら妊(はら)めり。夫无(

な)く何の由にか妊身める」といへば、答へて曰はく、

「麗美(うるは)しき壮夫有りて、其の姓名も知らぬが、

夕毎に到来りて、供に住める間に、自然懐妊(はら)み

ぬ」といひき。

 是を以ちて其の父母、其の人を知らまく欲り、其の女

に誨(おし)へて曰はく、「赤土(はに)を床の前に散

らし、へそ(糸巻)の紡麻(うみを)を針に貫きて、其

の衣の襴(すそ)に刺せ」といひき。

 故、教の如くして旦時(あした)に見れば、針著(つ)

けし麻(を)は戸の鉤穴(かぎあな)より控き通りて出

で、唯遺(のこ)れる麻は三勾(みわ)のみなりき。 

 爾に即ち鉤穴より出でし状(さま)を知りて、糸の従

(まにま)に尋ね行けば、美和山に至りて、神の社に留

まりき。

 故、其の神の子とは知りぬ。故、其の麻の三勾遺りし

に因りて、其の地を名けて美和と謂ふなり<此の意富多

々泥古命は神君・鴨君の祖>」


 ただし本曲の原拠となったのは、俊頼無名抄の以下の

説話であると思われる。

「三輪明神御歌

 恋しくは訪ひ来ませ千早振、三輪の山本杉立てる森

 これ三輪明神住吉の明神へ奉らせ給へる歌とぞいひ伝

へたる……

 わが宿の松はしるしもなかりけり、杉むらならば尋ね

来なまし

 杉をしるしにして三輪の山を尋ぬとよむ、皆故あるべ

し。

 昔大和国に男女相住みて年来になりにけれど、昼留り

て互に見ることなかりければ、女のうらみて、『年来の

なかなれども未だその体見ることなし』と恨みければ、

男『恨むる所まことに理なり、但しわが体を見ては定め

ておぢおそれむが如何に』と言ひければ、『このなから

ひの年を数ふれば幾そばくぞ、たとひその体見憎しとい

ふとも、願はくは体見え給へ』と言ひければ、『然なり、

さらばわれその御櫛笥の中に居らむ、聞き給へ』と言ひ

て帰りぬ。

 いつしか開けて見れば、小き蛇蟠りて見ゆ。驚きて蓋

を蔽ひて退きぬ。

 その男復来りて、『われを見て驚き給へり、まことに

理なり、われも亦来ることは羞なきにあらずや』と言ひ、

契りて泣く泣く別れ去りぬ。

 女うとましながら恋しからむことをうれへ思ひて、苧

の巻き集めたりけるを針につけて、狩衣の尻にさしつ。

 夜明けぬれば、その苧を知るべにて、尋ね行きて見れ

ば、三輪の明神の祠に入れり。その苧の残りの三わけに

残りたりければ、三輪の山本といふなりとぞ」


 また、シテの里人(女)がワキの玄賓僧都に衣を請う

場面は、江談抄第一の「玄賓律師大僧都辞退事」にある

以下の文章をヒントに、本曲の作者が脚色したものと想

像される。

「又云、去洛陽赴他国、道に来合女人、脱衣奉之侍しに、

歌云、

 三輪川の渚の清き唐衣くると思なえつとおもはじ」

 つまり、女人が玄賓僧都に衣を贈ったことになってい

る原文を、本曲の作者は女人が僧都に衣を請うようにア

レンジしたものと思われるのである。


 なお、古事記に男神(意富多々泥古命)として登場す

る三輪明神が、本曲では女神として描かれてことについ

て、三輪明神(男神)が巫女に憑依しているのであると

いう見方もあるようだが、それでは何のために僧都の前

に現れて「罪を助けてたびたまえ」(「謡の全文」一一

参照)なのか分らない(姦通の罪?)。

 また、袖中抄には「今の『訪ひ来ませ』の歌を(俊頼

無名抄の歌)、三輪の明神住吉の明神に奉給へる御歌と

申すめれば、女神と三輪をも申すべき歟(か)。両社の

男女不審なればとかく申し難し」と記されており、本曲

の成立当時、すでに三輪明神を女神とする見方が一般に

広がっていたことをうかがわせる。

 したがって、後シテの三輪明神はやはり女神本体であ

り、三輪明神を女神としたのは本曲作者の創作と見るの

が妥当だろう。